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あひるの日記

あひるの日記

礼拝のメッセージ2004/3月分

3/7(日)のメッセージ
私たちの教会の使命1コロサイ人への手紙1:13~14

救いは、私たちの人生に希望を与える。
そして、私たちは救いによって、「暗闇の圧制」⇒「愛する御子の御支配」へと移される。

すなわち、私たちは、この世で生きていく中で知らないうちにサタンの混乱と束縛で苦しめられている状況から、イエス様を信じることによって、希望ある人生へと変えられていくのである。
教会は、御子の御支配に入った人の集まりである。
しかし、このプロセスにおいて私たちは、葛藤を覚える。
なぜなら、私たちは古いmindにおいて、自分に自信があるから自分のやり方でやろうとして、神様にゆだねようとしない。だから、偽りと惑わしから解放される必要がある。しかし、新しいmindでは、神様にすべてを委ね、神様の導きに従っていくやり方である。そのように宣言していきましょう。
「まず、求めなさい。そうすれば、与えられます。探しなさい。そうすれば見つかれます。」
ピリピ2:13~14「すべてのことを、つぶやかず疑わずに行いなさい。」
神様は、救いに導いた時点から、その人に対する計画をもっておられる。
私たちが、救いに導かれると、直面する問題は、問題だけで終わることがない。
直面する問題を通して、私たちは神様の素晴らしさを教えていただくチャンスに変えることが出来る点がクリスチャンの特権である。
教会は、神様の恵みを体験し、人々に伝える者として集まっている。
っていうわけで、人々に伝える前に、私たち自身が、是非神様を知って、恵みを体験してもらいたい。
神様は、恵みからより大きな恵みへと移されるために、次の場所に押しやられる。

3/14(日)のメッセージ
ヨハネ16:25~33 世に勝つ勝利
最後の説教の場面で、弟子達は今までイエス様に従ってきたが、「あなたのところからいなくなります。」という言葉を聞いてパニックになってしまった。
イエス様に祈りについて学んできたが、弟子達はそれまでイエス様の名によって祈ってこなかったのである。
しかし、イエス様がたとえ話ではなく、天から遣わされた方であることを悟った。
イエス様は、弟子達が散らされることを預言し、弱い弟子達であったが、忍耐をもって愛しておられた。
そして、十字架につけられている状況にあっても、心は神様と共にあった。
「私は1人じゃない!」
↑イエス様は神様に信頼を置いていた。
私たちはこういう信仰をかきたてられていくべきである。
イエス様に従っていく道には敗北はない。
この世で体験することは、決して敗北に終わるものではない。
イエス様を見上げ、勇敢でありなさい。
私はすでに世に勝ったのです。

第1ヨハネ5:5「世に勝つ者⇒イエスを神の御子と信じる者」

3/21(日)のメッセージ
ローマ1:16~17 私たちの教会の信仰

教会とは⇒神様によって選ばれ召し出された人々の集まり。
つまり、私たち1人1人が教会!
現在は、教会の信仰が問われている。
つまり、私たちの信じるものは何か?
ローマ10:9~10、14、17「信仰は、イエス・キリストを信じ受け入れること」
ローマ1:17「信仰に始まり、信仰に終わる」

信仰によって信仰生活はスタートし、信仰によって進み続ける。
信仰生活のパスワードは「信仰」で、神様の恵みを体験する受け皿である。
正しいことを信じるがゆえに、神様から正しい者と認められる。
救いの信仰だから、そこには希望と喜びがある。
信じ続けられるかが、私たちクリスチャンに問われてくる。
なぜなら、信仰は筋力トレーニングみたいなもので、神様によって信仰のチャレンジを受けて、今までの信仰では通用しなくなるが、この信仰の訓練によって私たちの信仰は強められ、より大きな恵みを受けられるようになる。
へブル11:1「信仰とは目に見えないものを見ること」
神様の計画は私たちの将来に希望を与え、信仰の中を歩む時に、平安がある。
私たちはとかく、感情に捕われるが、信仰は感情によらずに従うものである。
恐れや不安を受け入れず、信じ続けることを宣言すれば、信仰は留まり続ける。
信仰とは、まだ道がないときでも踏み出すこと。
家庭や職場・学校といった私たちが遣わされた領域を新しく開拓していこう!
信仰とは、お題目ではなく、信じて働かせるもの。
私たちは現実をベースに考え行動しがちだが、現実は変わるものである。
問題は、私たちが直面する状況のもとで、信仰を持ち続けられるかどうかである。
神様は、信仰を強めるためにチャレンジを与えられる。
ただし、自分の力で信仰を強めようと頑張ってしまうのではないので、悪しからず。

3/28(日)のメッセージ
ヘブル11:1~12 私たちの教会の信仰2

先週に引き続き、今週も「私たちの教会の信仰」がテーマでした。

私たちは、信仰以外の力で生きてきた。
パウロは、エペソ2:1~3で、「生まれながらにして神を知らずに生きてきた」と述べている。
その生き方とは、

1.この世の流れに従って生きてきた。
2.悪魔の惑わし
3.自分の欲望に従って生きてきた。

であるが、この生き方には限界を感じる。ダメだと悟ることは素晴らしい。
私たちは、信仰によって生きるものとされてきた。
信仰によって生きていく理由は、
1.神様を知ること
2.神様の素晴らしさを体験する
3.神様の素晴らしさを人々に伝えていく

ことになるだろう。
神様に期待すること=信仰を働かせる
「神様は私たちの祈りに報いて下さる」ことを前提に私たちは祈る(=信仰によって生きていく)のである。
そして、祈りが応えられるまでの忍耐が品性を作り出し、神様はその忍耐をするときにその人を取り扱われ、その問題が解決されるときに、心の内側がイエス様のように導かれていく。
信仰によって生きる=神様の視点によって物事を見ていく
ヘブル11章では、旧約時代の信仰によって生き続け賞賛されてきた人々の生き方について記述されている。
神様は、すべてを知っておられ、完全で変わらない方であり、神様が語られることは不変である。⇒神様がおかしく見えたら、私たちがズレているという証拠である!
私たちは、信仰によって行動することが問われてくる。
信仰によって行動する=目に見えないことを信じて従い行動すること
信仰は神様から与えられる賜物で、確信・平安があり、揺り動かされることがない。
Why 信仰が与えられるのか?
⇒私たちには征服すべき領域が与えられている(ヘブル11:32~34)
時々、私たちは神様から信仰によってついていくことを試される。


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